手紙が届いた。差出人の名前はない。
持ってきてくれた人に聞いても分からないの一点張りだ。
悩んでいてもしょうがないので、ゆっくりと文字を追う事にした。
急いで書いたらしく、その筆跡から感じられたのは焦りだった。
こういうのは慣れないという弁解から始まった文は、辿々しくも確実に、手紙を読む私という人間に宛てられて書かれたものだ。
それが分かってしまった瞬間、この先を読むのをためらった。
間違いなく呪縛だと思った。
読んでしまったら、私はこの人を永遠に待ち続けなければいけない。そしてこの人もまた、私の所へ必ず帰って来なければならないからだ。
▽
いきなりごめん。手紙なんて何年も書かなかったからよく分からないけれど、書かなくちゃいけないような気がしてこうして書いています。
「ああ、難しいな」
航海日誌の方がまだマシだ。誰かに宛てて手紙を書くなんて。
気持ちばかりが焦って内容もろくに定まらないまま筆を走らせる。
だけど、ゆっくり話す程の時間はもう残されていなかった。
あれこれと理由をつけて先延ばしにした僕への罰かもしれない。
せっかく帰って来たばかりなのに明日にはもうここを発つ事になって、その時に浮かんだのは君の顔でした。
待っていてなんて言葉は君を縛り付けるだけかもしれない。
でも、敢えて言います。
帰ったら君にどうしても伝えたい事がある。
だから待っていて欲しい。
君が僕を待っていてくれるなら、僕は必ずそこに帰れると思うから。
「…………重い」
一通り書き終えて改めて読んでみると、口にせずにはいられなかった。
勢いで書いていたらとんでもない代物が出来上がってしまった。
この手紙は間違いなく彼女と僕を縛り付けるだろう。
こんなやり方は自分勝手で卑怯だと言われても言い返せない。
しかし書いたのは紛れもない本心だったので、破いて捨てるのは忍びない。
届いて欲しい。読んで欲しい。
物語に出てきたら嫌な予感しかしないような手紙をしたためておきながら、僕は少しも「もう帰って来られない」とは思っていなかった。
船出だって人類が石化する前の生活を思い出すようで正直楽しみだ。
ただ、家族や恋人にメッセージを送る同僚の気持ちを今になって理解できたような気がした。
迷ったあげく名前を書くのはやめた。
逃げ道を作りたい臆病な気持ちも、直接会って伝えたいという気持ちも、とうとう捨てられなかった。
▽
帰って来た船が間を置かず再び水平線の向こうに見えなくなって、数週間が経った。
結局、届いた手紙は戸惑いながらもすべて読んでしまった。
正直に言うとなかなかの重さがそこにはあった。
船が帰って来る保証なんかどこにもない。行ったその足で、また別の地に向かう可能性だってある。
書いた本人も苦笑していただろう。
だけど私がこうしてぼんやりと座っているこの時も、あの人は冒険を満喫しているに違いなかった。
だとしたら、私もここでやれる事をやるだけだ。
働いた一日の終わりには日記でも書いてみようか。
あの人が帰ってきたら、隅から隅まで読んでもらおう。
それで、ああいう手紙にはちゃんと名前を書いてくださいって怒ったふりをしよう。
その後にならきっと、彼の言う「どうしても伝えたい事」を受け止められる。
今はただ、名乗りもせずこんな手紙を私に送り付けたその人に、どうかまた会えますようにと願うほかないのだ。
2020.7.15 『カモメ』
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